松戸アートピクニック⑩大成ゼミ グローカルピクニックを終えて…大学院生の感想
2017年 12月 22日

大学のゼミは、通常の授業とは違う何かその後の人生の糧となるような、大切な事を体験し学ぶことが出来る場であると認識している。自身を振り返っても、大学のゼミ活動は人生に大きな影響を与えている。
だからこそ、大学3年生が学ぶ場である“大成ゼミ”の片隅に置いていただいている私は、そこを十分にわきまえたい、つまり自分が【主体性】を発揮する場所ではないということを常日頃自分に言い聞かせている。
しかし私自身を振り返った時、おそらく私は人生で1度として【主体的】でない活動の取り組み方をしたことがない。そして自分が【主体的】に行動した時に生じる【責任】を嫌だと思った事もない。むしろ【責任】の生じない所に、何の楽しみがあるのかわからないくらいだ。
(*責任とは役職といった狭義の意味ではない。)
だからそんな私が、大成ゼミの片隅に置いていただくには、私なりにキャラクターを変更する必要性があったのだ。敢えて言うなら、主体的にキャラクターを変えようと思ったのだ。
そして私は、ちょっとだけ「自分じゃない自分」になった。
「自分じゃない自分」になってみた最初の頃は、色々と理解が出来ないことも出てきたり、【主体性】を削いだことで色々な事柄が【自分事】として受け止められなくなった。そして何も視界に入ってこなくなった。それでも「自分じゃない自分」を続けてみると、少しずつ見たことのない景色が見えてきた。
そして迎えた「松戸アートピクニック」最終日の帰り道、私の視界は久しぶりに晴れた。
「アートとはなんぞや」ということは未だに理解できていないが、少なくとも【アーティスト大成哲雄+聖徳大学大成ゼミ】のアートを体感したことで新たな景色を見る事ができたのだ。
「グローカルピクニック」は、アートを通して地球(宇宙)規模の大きな視点と身近な地域の視点の両方を意識してさまざまな問題を捉えていこうという考えに基づいている。
来場者のいない時間帯に、航空写真のレジャーシートを見て「あー松戸駅と公園はこういう位置関係ね。上空から見たらこんな風に見えるんだ。」と思い、大きなブランコに乗っては「あー空に吸い込まれる。意外に優雅に動くんだな。」と感じ、松戸市の風景の断片でできた屋台がそこにある景色を見て「こんな風に室外機にフォーカスしたことないな。自然の中にある人工物っておもしろいな!」と感じた。だから私は参加者が来る前に、十分にグローカルを感じ、グローカルに思いを馳せることができた。
・・・と思っていた。しかしそれは違っていた。
晴天の最終日、多くの方が来場してくれた。来場者の中には、グローカルピクニックに照準を合わせて来てくれている人もいれば、同時開催の別のイベントから迷うようにグローカルピクニックにたどり着いた人もいた。つまりそこにいた人達は、その日その時に偶然に集まった集団ということになる。事前には誰が来るかもわからず、来た人達の背景を知らない私たちに、その人達が何を感じ何を発して行動するかは当然のことながら想像できない。未知数である。
時にプロ論を語る際、「プロとは、未知数を1つでも無くすことだ。」と表現することがある。
保育のプロなら、「予想される幼児の姿」の項目をどれだけ真っ黒に埋め尽くすことができるかが、腕の見せ所となる。システムエンジニアにおいては、いかにそのシステムを使うエンドユーザーが起こすであろう「エラー操作」の数々を想定し、対策をとることができるかが腕の見せ所となる。どの職種においても、単に想定できていなかったということで、対応が後手にまわることは避けたい。小学校以降の学習の場においても、子供達がつまずくであろうことを想定せず、対策を練らずに指導を行うことは考え難い。もっといえば、そういう指導のせいで子供達を犠牲にする訳にはいかないのである。
その考えの染みついている私は、ワークショップがあるとはいえ「グローカルピクニック」は来場者抜きにしても、当然アートの8割方は出来上がっていると、何の疑いもなくそう思っていたのだ。
しかし最終日の帰り道、活動を振り返りながら私は驚いた。実は「グローカルピクニック」の5割方は、未知数を抱えた来場者に委ねられていたのではないかと気づいたからだ。(私の感覚ですが)
私は参加者と交わした言葉を思い出していた。
「何が見える?」「〜が見える!」「え、どこどこ?」「こうやって見てみて!」「なるほど、見えた!」「おもしろいねー!」「他に何が見えるか見てみよう!」
思い出したのは、自分がやったことではなかった。人との会話だったのだ。アートを通して人と会話をして、それが幾重にも紡がれた結果が、グローカルピクニックだったのだ。
私はグローカルピクニックを通して、いつになく人の目と心に映る景色に興味を持ち、そしてその目を借りて見た風景に発見と喜びがあったのだ。
そんな発見をした私の頭に次に浮かんだのは、【対話的】という言葉だった。
【主体的・対話的で、深い学び】については、最近様々な人の考えを聞き、自分自身も考えていた。簡単に言えば、【主体的・対話的】は【深い学び】にとって欠くことができない要素である。そのことはすでに腑に落ちていた。私は比較的人と関わることが好きな方だと自覚しているが、【主体的】と【対話的】を天秤にかけると、【主体的】の方に比重が傾く。そんな私が大成ゼミにおいて「自分じゃない自分」になって活動をしてみることで、【主体的】と【対話的】のバランスが変わったのだ。【主体的】に比重が傾いていると叶わない【対話】があることに初めて気がついたのだ。
アートピクニックで見た【対話性】は、自分の思っている【対話性】よりもはるかに多くのものを生み出していた。おそらく私の感覚では、ある程度予測可能で確実なものを頭に描いてしまうせいで、【対話的】に作り上げていく割合が少ないのだと気付かされた。
振り返れば、大成先生のアート活動はいつも【対話的】である。大成先生が参加者に向けた仕掛けは、偶然そこにつどったもの同士の【対話】を最大限に引き出し、結果的に簡単に予測できるようなものを大きく飛び越えたものが完成するのだ。もしかするとその力こそが【アート】なのかもしれないと、今は考えている。
改めてアートピクニックを通して、【アート活動】の持つ力をみることができた。そして、【主体的・対話的】と並べているけれど、それぞれの質や2つのバランスによっては、【深い学び】が大きく変わってくるということを認識しておきたいと思う。
今後、教育の現場で【主体的・対話的で、深い学び】は実践されていくことになる。そこで改めて、教師という役割を担っている人達自身が、本当に【主体的・対話的】【深い学び】を理解しているのか、そして実感しているのかということが課題になるだろう。わかっている風、実践している風では、決して【深い学び】を生まない。
前述の通り、教師が熟達していくメカニズムと真の【対話的】は、相反することも懸念される。
もっといえば、教師に限らず人は皆、気が付かないうちに頭も心も凝り固まっていくものであるということを認識しておきたい。
それを防止しようと、時々「自分じゃない自分」になってみようとするのもいいかもしれない。
でもその限界もよく知っている。だからこそ、アートの力を借りて、アートの持つ「柔軟性」や「曖昧さ」「懐の深さ」を自分のものにしていけたらいいと思う。
その先に【主体的・対話的で、深い学び】を創出できる教師がいるのではないかと考えるのである。
それが「自分じゃない自分」になって、私が学んだことである。
最後に、私は大成ゼミの活動を通して多くのことを学ばせていただいているが、実は活動の最中よりも、じっくりと振り返る行為によって、本当の学びを得ている。つまり【深い学び】には、【静と動】もまた欠くことのできない大切な要素なのだと実感を持って言える。
今後も大成ゼミで、自分の心と頭をぐにゃぐにゃに柔らかくして、沢山のことを感じていきたいと思っています。
よろしくお願いいたします。
(さとう)
▲ by seitokubi | 2017-12-22 22:50 | 3年次ゼミ(大成ゼミ)